ココロ


小指

心色にて不定期連載していました

その1

教習に行くためマンションの駐輪場を出ると、
突如として目の前に広がる光景。
踏切内で立ち往生する自転車と老人。
鳴り響く警報機。
それを救出する男性二人。
3人が踏切から出た数秒後に猛スピードで通過する特急。

二人は、一番前とその後ろの車の運転手だった。
おそらく、踏切に閉じ込められたのを見るなり飛び出したのだろう。
強い正義感もそうだが、素晴らしいのはその行動力だと思った。

もし僕が運転手だったら。
老人を見てすぐドアに手をかけられただろうか。
あるいは傍観者になってしまっていたかもしれない。
凄惨な事故の目撃者となっていたかもしれない。

事故。
見ず知らずの赤の他人ならまだしも、
自分の愛する人の身に降りかかる災難にさえ、僕は無力だった。

脳裏をよぎるのは、あの時の「事件」。

その2

あれは3年前、夏の終わり、まだ残暑厳しいある日。

大学は夏休み真っ最中。
大学院生には夏休みなんて存在しないはずが、
お気楽な僕は部屋でのんびり。
横には、彼女がいる。

付き合ってもう2年以上。
これといったケンカもなくここまできていた。
安定している、と思っていた。
ずっとこんな日が続けばいい、とも思っていた。

一方で、
未だに彼女の気持ちがよく分からないという悩み。
いつか別れる日が来るのかもしれない、という不安。
もやもやしたものは常に心の中にあった。

それらすべてを抱え込んで、
愛を確かめたくて、
体を重ねる。

いつもと変わらぬ日常。

「もう帰らないと」彼女が言う。
アパートの外まで見送りに行く。
その日は弟の原付に乗ってうちまで来ていた彼女。
「気をつけてな」僕が言う。

いつもと変わらぬ日常。
ただひとつ、彼女が原付で帰ったことを除いては。

その3

夜遅くに、受話器を手に取る。

昼間に会ったばかりの彼女に電話をかけようとしているのは、
二人がどこかぎこちなかったから?
まだ話し足りなかったから?
その答えを確かめる意味も含めて、短縮ダイヤルのボタンを押す。

トゥルルル・・・
4回、5回・・・出ない。
「おかしいな」声に出して呟く。
7回目のコール音を最後まで聞いて、受話器を置く。

きっともう寝てるんだ。
いや、ひょっとしたら気付いてて出てくれないのかもしれない。
何か怒らせるようなことしたっけ。
明日になって別れ話でも切り出されたらどうしよう・・・

マイナス方向へと加速する思考。
ずいぶん長く付き合っているにもかかわらず、この有様。
急激に焦りと不安を募らせながら、身体を布団に投げ出す。
当然やってくるのは、眠れない夜。

ぐるぐるまわる想像の中、
浮かんできたもうひとつの可能性。
でもそれはすぐに打ち消す。
縁起でもないから。
「ひょっとしたら原付で事故・・・いや、まさか」

とりあえず明日また電話しよう、と自分に言い聞かせ、
電気を消して無理矢理目を閉じる。

その4

一夜明けても、彼女の携帯は一向に応答が無い。
これはいよいよ事件だ。

彼女の友人に連絡してみるか、
それとも直接家に電話してみるか。
・・・もしそこまでするほどのことじゃなかったら?
それに家に電話したところで、僕は彼女の親と一切面識がない。

携帯に出ない。
言ってしまえばただそれだけのこと。
だが、いつでもどこでも連絡が取れる便利さゆえに、
その事態によって一層つのる焦燥感。

きっと彼女はヘソを曲げて出ないのだと思いたかった。
いや、この時点では多分にそう思っていた。
彼女の身に何かあったなんて考えていなかった。
考えたくなかった。
考えまいとしていた。

しかし、嫌な予感というのは的中するもので。

張り裂けそうな胸騒ぎを抱え、またひとつ夜を越し、
電話が鳴ったのは翌日の晩。

「・・・今、どこにいると思う?」

彼女は、病院にいた。

その5

「もしもし?」
「・・・もしもし?」
とても久しぶりに聞く気がする彼女の声。

「今、どこにいると思う?」
「・・・・・・病院?」
「うそ、なんでわかったん?」
ああ、やっぱりそうなんだ。
できることなら当たってほしくなかった。

いたずらっぽく笑う声にはいつもより元気が無かったが、
とりあえず命に別状はなさそうでほっとした。
こうして電話できていることが何よりの証拠だ。

しかし、次の瞬間僕は言葉を失った。
「小指がちぎれかけてん」
・・・小指!?

路上駐車をしていた車のドアが突然開き、
急ブレーキをかけたが衝突。
ハンドルとブレーキレバーの間に小指をはさんだらしい。
小指は90%切断、手術でどうにかつながったとのこと。

原付での事故なら、せいぜい転んで骨折程度だと甘く見ていた。
"小指がちぎれかけた"というその言葉があまりに衝撃的で、
頭の中でいつまでも反響していた。

もうすぐ終電もなくなる時間だったが、
自転車で1時間以上かかろうと、今すぐにでも駆けつけたかった。
いてもたってもいられなかった。
「大丈夫だから」と彼女に諭され、翌日行くことを約束したが、
それから眠れるはずなんてなかった。
昨日、おとといとは全然違う種類の胸騒ぎに苛まれた。
一分一秒でも早く彼女の顔が見たかった。

夜明けが果てしなく長く感じた。

その6

「おはよう」
「おはよー」

それからほぼ毎日病院通いが続いた。
バイトのスケジュールも何もかも見舞い中心の生活にした。
そうせずにはいられなかった。
何故なら僕に出来ることは、見舞いだけだったから。

包帯でぐるぐる巻きだった彼女の右手は、次第に肌の露出が増えてきた。
ついに包帯が小指だけとなったある日。
「(小指)見る?」
「あ、見たい見たい」
「やめといた方がいいと思うけど」
「・・・いや、見る」
「知らんで」
「いいよ」

やがて彼女は包帯をほどき始めた。
そこに現れた小指は、爪楊枝ほどのやたら太いワイヤーにまっすぐ貫かれていた。
ほぼ切断状態だった指をつなぎ止めるためだという。

泣きそうになった。
この瞬間に初めて事故の凄さ、怪我のひどさを強烈に理解した。
話に聞くのと実際目の当たりにするのとでは訳が違う。
この怪我のせいで、彼女は幼い頃から通っていたエレクトーンを辞めた。

どうして、こんなことに。

彼女がどんな悪いことをしたというんだ。
きっと僕のほうがうんと悪いことをしてる。
なんで僕の小指じゃないんだ。
彼女の指が治るのなら、僕の小指なんて、
いや、僕の片腕でも両腕さえもいらないのに。

加害者への恨みなんて微塵も頭に無く、
あるのはただ「代わってあげたい」という気持ちばかり。

それでも僕に出来ることはといえば、
明日も病院を訪れることだけだった。

その7

「ちょっと、そんなに触らんといてよ」
僕が小指を触るのを嫌がる彼女。

もう退院して随分たったけど、ワイヤーが抜けたのはつい最近だ。
縫い跡が生々しいものの、最初に病院で見たのが嘘みたいに治っていた。
ただ、まだ少ししか曲がらないらしい。
ずっと伸ばしっぱなしだったせいもあるだろう。
どこまで元通りの動きができるようになるか、気がかりだ。

「でももうエレクトーンは弾けないと思う」
少し寂しそうに彼女は言った。

抱き合いながらも、繰り返し彼女の小指を撫でる僕。
「だから、触らんといてって言ってるやろー」
「ごめん、でも・・・」
続く言葉が出ないままにキスをした。

僕は彼女を愛している。
彼女のためなら、この身なんて惜しくない。
それなのに、僕は彼女の小指さえも守れなかった。

自分の無力さを悔やみながら、
元通りに治って欲しいと祈りながら、
僕に出来ることといえば、ただ小指を優しく撫でるだけだった。

小指の傷跡に責められるように感じながら、何度も、何度も。

その1:2003年09月05日
その2:2003年09月07日
その3:2003年09月08日
その4:2003年09月17日
その5:2003年10月21日
その6:2003年10月31日
その7:2003年11月19日


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